老舗旅館が見てきた下仁田の今と昔、人と町。

常盤館|松原信也さん / October 03, 2017 / はたらく /

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大正元年に創業し、古くから下仁田町を見てきた常盤館。 建設屋さんの現場監督から、お婿さんとして下仁田に移住し常盤館の歴史を紡ぐ松原信也さん。 常盤館が見てきた下仁田町の歴史や、移住者目線で感じる町の魅力・人の魅力・人との関わりについてお話を伺いました。

店と町民の関係が“出前文化”をつくってきた

―よろしくお願いいたします!まず、常盤館のこれまでの歴史について教えていただけますか?

下仁田町は材木とこんにゃくの行商で栄えていました。そこの行商の商いを扱っている商人さんの宿として、常盤館が始まったと聞いてます。 もともとこの隣が花街で、商売で儲けた社長が遊びに来てたっていう歴史がありまして。 ここはもとは伊勢屋さんていう料理屋さんだったものを初代が居抜きで買い、増築・改築を繰り返して今の形になっているという話で聞いております。 特にこんにゃく屋さんの商いがすごく利幅が大きかった時代には地元の商店さんたちが二階の宴会場をほぼ毎日使ってくださってにぎやかに宴会をしてくれました。 妻が生まれたころの子供時代もそのくらいの賑わいはあったという話なので、我々が子供だった時代はまだそれくらい栄えていたそうです。

―最初からこのような旅館という業態で始めたのですか?

最初は商人宿プラス料理旅館のようなかたちで始めました。初代ののぶさんがとてもやり手の女将で、その影響もありまして、結婚式もやっていました。 昔は式場披露宴という形式が主流で、会場としてうちの二階で1日3組が宴会する日もありました。

それと並行して3代目館主が都内のバスツアー業者の方と縁があり、下仁田町が観光ルートになる過程で、何か地元らしい料理を考えてくれないかという要望で考案されたのがこんにゃくづくしのコースです。 大型バス2台でいらっしゃる日もありました。

―とてもたくさん人が賑わっていたのですね。最近は富岡製糸場効果で観光客が増えましたね。

特に初年度はすごい観光客が殺到しました。富岡ってそんなに大きい会場があるお店が数えるほどしかなく、こちらまで来てっていう感じで。下仁田はこの辺だけでも4軒くらい広間をもった宴会場や料理屋さんがあるんです。

まだここらへんで50店舗近く店舗が残っているんですけれども、町の人の力は大きいかも知れませんね。

”出前文化”といいまして、料理1品でも普通に電話で注文が来て、応じています。

普通のお店からすると「え、1つだけ?」ってなるんですけれども、それが何件もあったり毎日だったりするので、店とするとまとまった注文として捉えていて。一件一件に限っていうと、1つとか2つとかなんですけれども、それが10件集まると20個になったり。それが毎日続くような。出前をとるハードルは他の地域に比べて低いと思うんですよね。普通の地域ですと、1つじゃ頼みづらいなって諦めてしまうと思うけど。 たまにありますけど、うちで食べてて宴会の締めにデザート食べたいなっておっしゃられて、出前でパフェを持ってきてもらうとか。 「この店はコレ!」って昔から何か強みをもった店が多いので、町の人はそれを使い続けてたっていう流れはありますね。

出前をとるっていうことも普通ですし、1個でも2個でもとるっていう。 それくらい密接な関係があったということですね

T型フォードも走る商売の街

―あちらの写真も、いい写真ですね。

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あれは上信電鉄が電化された1924年頃の写真です。 石炭から電気の電車になったのを記念して車に飾り付けをしたものです。 T型フォードなんですけれども、まだ国産の車がそんなにない時代に、この辺は外車のタクシーが走っていました。ここから南牧村ですとか、奥の山に買い付けにいく行商さんの足として使っていたようです。 田舎にしてはちょっと栄え方がおかしい。 まず木がお金になる時代に儲かって、こんにゃくがすごく儲かるときにちゃんと儲けたっていう。その流行りにのれていた特殊な地域ではあるかもしれないですね。 こんにゃく屋さんは本当に1年1年が勝負なので、すごく儲かっても次の年にはつぶれてこなかったりとかも時々あったそうです。

―どうしてですか?

相場っていうものがありまして、昔、粉の相場は「言い値」でした。 東京の仲買さんていうのは、東京で買い付けてきて欲しいって依頼を受けてうちに泊まって、交渉にいくわけですよね 生産されている農家の方と。 昔はインターネットもないですから、値段はお互いに知らない、教えない、言わない。 でも東京には高い金額で売る。 でも実は下仁田からは安く買って。 すごく利幅が大きい商売でした。 うちのお部屋のふすま越しで2人、仲買さんを泊めてたんですよね。 絶対漏らせれないですから、館内に唯一あった公衆電話は周りを気にしながら、小声で東京と連絡をして「買い付けて来ました」っていう報告をしてたそうですね。

―緊張感がある…。

そうですね。 その分、下仁田で飲んだり食べたりしてもらって、もらうものはもらって。 いい関係って言うんですかね。

よくも悪くもお金がよくまわる町だった認識はしてます。 働いている方もそうですけれども、食事を自分でつくって節約せずに、お店にお金を出して出前をとる。 出してても、どうせまた返ってくるっていう流れがあったのかな。

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大阪から来た移住者の一人として

― 松原さん自身、婿として下仁田町に移住してきた一人ですが、感じることはありますか?

土地の土壌としては商人の方がたくさん出たり入ったりしていた町なので外から人が来ることに対しては抵抗はないように思います。

自分は大阪出身で、もともとお金とかにやらしいっていわれるようなイメージをもたれているかもしれないですけど、近いですよね、これだけ商売をしっかりやってきた下仁田の商人感覚っていうのは。

元々は建設屋で現場監督をしてたので、人を使うっていう部分では共通的なものもありますし、材料を調達するっていう部分ではすごく役立ってます。料理の専門的なことっていうのは自分はもう出遅れてますので、経営だったり、感情だったり、感覚的なことでは活かしています。

下仁田ローカルルールっていうのはありますけど。そういうのは覚えていけばいいだけであって。

やっぱり30年生きてくると、自分なりのやり方はあって、それを1回ゼロにしてっていうのが自分にとっては新鮮な部分もありましたし、ゼロにした方がしんどくないっていうのはありましたね。何もできない人間のままここに来てるわけですから、入って数ヶ月は本当にやることがなかったですよね。まず何をやっているかわかりませんから。

―もっと変わったらいいなーと思う部分はありますか?

実はすごいいいものを持っていて、でも住んでいる自分自身では気づいてないことも多いなって。

例えば下仁田ねぎ。

ある人の旅行先の話を聞くと、京都の八百屋さんでは下仁田ねぎが神棚の隣に飾ってあったって。 それくらい高い位置に売ってたっていう話を聞いて。 売り物のネギをそれだけ高級品として扱っている。 知り合いに下仁田ねぎを1箱送ったら、10,000円くらいのものが帰ってきたんですよね。いやいや、こんなにせえへんから(笑) でももらった人からしたら、それくらいその高級品、価値のあるもの。

気づいたらそこのギャップにまた自分はおもしろみを感じたんですよね。 知られていないっていうことが、逆に言えばまだまだ価値があるんじゃないかなと。

食べたときのインパクトはもちろんありますから。 これを前面に出さない手はないなぁって、自分は絶対いけるって確信を持って下仁田ねぎを使ったすき焼きを7年くらい前から力を入れて売り出しています。

― 下仁田町で仕事をしていて意識をしていることはありますか?

自分の代が危機感を持っていないとつぶれるって思っています。 そういう危機感はどっかの片隅に置きながら、仕事はしてますね。 プロ野球選手と同じで、常に1日が勝負というか。 そこまで自転車操業じゃないですけども、長い目線で見てこのままではダメだっていう部分は持ちながら変化、対応につなげていこうと思っています。 「下仁田町行ったん?」って言った時に、「いいところに行ったね」ってなるのか、「どこそれ?」ってなるのか。 最初はもちろん「どこそれ」なんですけれども、将来的に「いいところに行ったね」って言われるようになるのが成功なんじゃないかなと思います。 それがずっとずっと続いていくといいなと。 ちょっと山越えた軽井沢は戦前から保養地としてブランド化してますけれども、軽井沢も何もないところから始まっているわけなので。

常盤館
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