手練りこんにゃくの達人が見るこんにゃくと下仁田町
佐々木蒟蒻店|佐々木信也さん / December 10, 2017 / はたらく /
東南アジアから伝来したこんにゃく芋
―まず、こんにゃくの歴史について教えてください。
こんにゃくは、もともと日本にはなかった作物で原産は東南アジアです。東南アジアから大陸へ伝わり、1500~1600年前に中国経由で日本に伝わったと言われています。中国経由なので日本には岡山や広島から入ってきて、和歌山あたりで栽培されていたものを水戸のあたりの人がもってきて北関東で栽培されるようになったたみたいですね。群馬に入ってきたのはその後です。こんにゃく芋はたべられないので、最初は食品として入ってきたわけではなく、医薬品として中国から入ってきました。それを室町時代くらいに食べられるようにしたのが、日本の食文化です。当時は芋をつぶして固めていたようです。精進料理であり、なおかつ体によいということでとり肉の代わりに料理に使っていたそうです。それを水戸の人が乾燥して粉末にして保存する方法を200年ちょっと前くらいに考えだして、そこから一気にこんにゃくの原料がここに物流として普及するようになったそうです。
下仁田町では南牧村にいた人が、その技術を使って芋を粉にするようになりました。もともとこんにゃく芋はデリケートで、作る場所が限られています。南牧村は条件が適していて自家栽培してたのがいっぱいあった。さらに芋を粉に加工する技術がすごく進んだことで下仁田町がこんにゃく芋を粉末加工する一大集積地になったんです。
こんにゃく屋の現在
―いまはどのような状況なのでしょう?
私がこの業界に入ったのが38、9年前です。その頃、全国にはこんにゃく屋が2,000軒以上ありました。でも、どんどん価格破壊が進んで、流通も整ってきたから、1ヶ所でまとめて安く作って日本中に商品が回るようになってしまったんですね。今は個人で昔持っていたノウハウや自分の家のカラーを出すこんにゃくを作ってる人たちがどんどん居なくなっていて、今、組合に入っているのは500軒を切っています。だからこそ、ノウハウや独自のカラーは残していかなきゃいけないという気持ちはずっと持っていました。せっかく群馬なんだから、群馬の下仁田町でこんにゃくをやるんだったら、そういう方向で残るこんにゃく屋が1軒くらいあったっていいんじゃないかなと思っています。
ー佐々木さんはどういったきっかけでこんにゃくを作り始めたのですか?
もともと父親がこんにゃく屋をやっていて、父親の実家も原料屋でした。私はがこの業界に入ったころは時代が良く作ったら売れるし、個人のこんにゃく屋さんもいっぱいありました。私は嫌だったんだけれど、父親が私に手伝わさせたかった。こんにゃく屋は冬は寒いし、夏は暑いし、水を使うから重たいし、と当時の3Kですよね。うちは当時すでに時代に沿わないこんにゃく屋で自動機もいれてなかった。結果的に自分の家のカラーも残せたし、ノウハウも蓄えられたわけです。でも私は本当は、こんにゃく屋をやりたくなかったんですよ。
―こんにゃく作りの基本はどういうものですか?
こんにゃく作りに限らず、基本はやっぱり基本。手を抜かないということです。一般的な商品や製品は、いかに効率よく作るかを考えて一番に時間を削ります。でもものを作るには時間がかかることが絶対にある。そこを基本として捉えています。
―こんにゃく屋さんは 今後も残っていくのでしょうか
このままでは残ってないでしょうね、あと10年20年かもしれない。人口が減って高齢化になると商品の売れ行きが落ちるのは目に見えています。その中で、こんにゃくの基本を考えると食物繊維でお腹をすっきさせて、血糖値を抑えたり、高血圧の予防になったり。糖尿病の人が食べるのには向いている食品です。そこをうまく伝えて、食べることの良さを教えてあげると、海外ではまだ広がるのではないでしょうか。でも日本人が、ましてこんにゃく業界が考えているこんにゃくは、既存の考えです。例えば普通のおいしいパスタの中に、2、3割こんにゃく粉末を入れれば割合は3分の1でも、パスタ自体の消費として4、5倍の人が食べれば、こんにゃくだけを食べているよりは消費量は増えます。そういう部分がうまくいくと大化けするんじゃないですかね。
これまでの下仁田町とこれからの下仁田町
ー下仁田町はどんな町ですか?
下仁田町には病院もあるし、駅もあるし、警察もある。何でもある小さな町です。何でもあって、産業が発達していたから昔は1つの街で完結していました。私が子どもの頃は、中央通りに夕方に行くと、肩がぶつかるくらい人が行き交っていて、すごかったんですよ。肉屋さんも、洋服屋さんも、お菓子屋さんもいろんな業種がいっぱいあった。そういう時代があった最後の世代が元気で残っているから。プライドが高いんだと思いますね。
20年くらい前に、町長から「すき焼きの町としてで町起こしをする」という話がありました。ねぎもこんにゃくも神津牧場もあるから。それではとバス呼んだりといろいろなところから観光客を呼んで、すき焼きフェスティバルっというのを開いたりもしました。それで盛り上がって、1年目はいろんな人がボランティアで手伝って盛り上げたけど、2年目になったら、ボランティアの人たちが、どうして手伝ってるのに自分たちの商売につながらないのか、となってしまって人が手を引いて3年目になくなっってしまったんです。あれを続けられたら、今は日本で一番のすき焼きの町になっていたかもしれません。
ー今後は下仁田町はどんな風になっていくとよいでしょうか?
すぐにお金になる話でなくても、外を向いてつながる必要があるのではないでしょうか。つながりが生まれればそこからまた枝が出て、違う話が出てくると思います。最終的に自分のビジョンや街のビジョンに持っていければいいと思います。すぐに結果が出なかったとしても種まいておかないと芽は出てこないですよね。自分が何をしたいのか、どういうふうにしていきたいかといものを持っていないと進まないでしょう。そういう感覚の持ち主が増えて欲しいと思いますね。
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